『賢明な彼女』

会社で事務をしているSが、上司から書類の不備を指摘されて、叱られました。上司は室内全体に響き渡るほどの大声で叱りつけるものだから、彼女は萎縮てしまい、いまにも泣き出しそうな顔になっていました。
昼休みに、休憩室のソファに、ひとりちょこんと座って、すっかりしょげかえっていました。実は僕は前から彼女のことが好きで、そのくりっとした目と、えくぼのかわいい顔に、魅了されていたのです。
つきあってほしい気持ちはやまやまでしたが、ほかの女の子になら平気で口がきけるのに、彼女を前にするとたんに、何も言えなくなってしまうのでした。
落ち込んでいる彼女を慰めてやれば、僕のことを認めてくれるかもしれない。優しい口調で言いよれば、彼女の気持ちをゲットできるかもしれない。しかし僕は、そんな人の足元をみるようなことをするのには抵抗がありました。それでぐずぐずしていると、山田と言う男性社員が彼女にちかづいて、肩に手をかけ、何事かを語りかけました。沈んでいた彼女の顔が明るくなるのがわかりました。山田は、僕が彼女にやろうとしていたことを、先取りしたのにちがいありません。山田はそれから、彼女の横に座ると、肩に腕をまわしたではありませんか。僕は態度をはっきりできない自分を恨みながら、その場から歩きさったのでした。
その後、彼女はすっかり彼が気にいった様子でした。社内でも、ずいぶん親しそうに言葉を交わしています。
僕は山田が、女性とみると片端から声をかける男だと知っていました。何人もの彼女をとっかえひっかえして、飽きたらぽいとごみのように捨ててしまうことも知っていました。Sがそんな山田に好意を抱くのをみて、何とか彼女に山田の本性を教えてやろうと思いました。しかし、人のことをチクったりすることほどいやなことはありませんでした、それよりは堂々とSに自分の気持ちを打ち明ける方がどれだけ男らしいでしょう。
僕は会社が終わるのをまって、玄関のところでSをまちました。ようやくSがでてくるのをみて、歩みよりました。
「ちょっといいだろうか」
彼女は足を止め、僕をみかえしました。たまたまそのとき、山田がうしろからちかづいてき手、彼女に声をかけました。
「夕食、食べに行こうか」
「お断りよ」
「なんだって」
すかさず僕が口を開きました。
「僕といっしょどうだい」
すると彼女は、こくりとうなずき、
「ありがとう」
と、僕の誘いをうけいれてくれました。
賢明な彼女には、最初のうちこそわからなかった山田の腹の中が、いまではみえていたらしく、この時僕に食事を誘われたのを、うまく断りの材料にしたようです。山田はそして陰で自分以外の男性社員の悪口ばかり言っているそうです。
後で彼女からそのことを聞かされた僕は、あらためて彼女にいいました。
「本当に、僕はきみと食事がしたいんだけど。つきあってくれないか」
Sはしばらくかんがえてから、
「いいわね。あなたは私の足元を見たり、チクったりする人じゃないみたいだし」
「ありがとう」
今度は僕の方が感謝しました。

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